日比 康造ひび こうぞう

PROFILE

[出身地] 東京
[生年月日] 1975年8月2日
[血液型] AB型
[趣味] 昆虫観察
[特技] 荒れた(荒らした)酒場で楽しむマインド

HISTORY

音楽との出会い

4歳の頃、兄弟の影響でバイオリンをはじめた。
場所は、親父の仕事の関係で住んでいたニューヨーク。

当時は街中でまだまだ人種差別が表立って感じられた。
地下鉄も落書きだらけの時代だ。

現地校に通っていた僕にとって、
マイノリティである東洋人の上に言葉がしゃべれないというのは、
簡単に乗り越えることのできない大きなハンディだった。

友達一人できない。気持ちも表現できない。孤独な状況だった。

家族以外、誰とも繋がることができなかった幼少時代、
唯一自分の存在を確認できたのが、バイオリンの音色と向き合うことだった。

毎日何時間も弾いた。
兄が弾いていた曲を弾けるようになるのが無上の喜びだった。

僕の音楽の道は、バイオリンの音色を通じて数百年前の作曲家と対話すること、
つまりはクラシック音楽との出会いから始まった。

押しつぶされそうな日々の中で、いやきっとそれだからこそ、
無限の音の世界が心の内に深く豊かに広がっていったのです。

日本に帰国してからも続けたバイオリン、
11歳の時にはイタリア遠征オーケストラの代表メンバーに
選出されるところまで情熱を傾けたが、

その直後に訪れた人並みの反抗期によって、あっけなく止めてしまう。
ただ音楽は純粋にとても好きだったのだろう。

当時人気のあった様々なバンドのコピーを繰り返していく中で、
「マラソン」というオリジナル曲を14歳で初めて友人と共に作った。

その曲を人前ではじめて歌ったのが、
別荘のあった夏の軽井沢で年一回開かれるBBQパーティー。
沢山の大人たちを前に披露した。

同席していたのが、戦後の日本を代表する洋画家の故・猪熊弦一郎氏。

歌い終わった僕を呼び寄せるとこう言った。

「キミの声は面白い。不思議に人を引き付ける魅力がある。これからも歌を続けていきなさい。」

まさかそれから30年以上も歌い続けることになろうとはその時は知る由もない。

猪熊氏のその言葉は普段思い出すことはなかったけれど、
弱気になったり苦しい状況を迎えたりした時に
自然と胸の内にうっすらと浮かび上がってきては、
それでも歌い続ける秘かな支えとなった。

ブルースの街、アメリカ・シカゴへ

高校へ入学とともにラグビー部へ入部。
寝ても覚めても楕円球を追う傍ら、バンド形態での音楽活動は継続。
オリジナル曲は一曲も作らなかったが、
その頃に出会ったのがブルース音楽だった。

幼少の頃から始めたバイオリンを通じて出会ったクラシック音楽は、
譜面を正確にたどることが要求される。
そこに自分ならではの気持ちを乗せる訳だが、新たな創作は入る余地がない。
人気バンドのコピーも同じで、文字通り真似事でしかない。

その点ブルース音楽はある一定のルールはあるものの、
自分がその時に感じた音を好きに表現してよかった。

音色やリズム、メロディーという音楽的な側面よりも、
即興性という初めて出会った概念にすっかり魅せられ、
古いカセットテープを何度も巻き戻しながら、
ブルースの巨人達のプレーを繰り返し反復して覚えていった。

学校の勉強は当然一番の後回しだったから、本当にギリギリの成績で大学へ進学。
ところがキャンパスライフというものに1㎜も興味を持てず、
入学早々、ブルース音楽の本場と言われるアメリカへ放浪の一人旅に出た。
19歳の夏だった。

ニューオリンズから入ってミシシッピ川沿いを、
グレイハウンドバスで一週間ほどかけてシカゴまで北上するという、
昔のブルースマン達が辿ったのと同じコースを巡る旅を計画。

途中でこれぞというギターを購入するつもりでいた。

最初の街ニューオリンズで、
ミシシッピ川沿いに響き渡る生トランペットの音にさっそくノックアウトされ、
老舗ジャズクラブであるプリザベーションホールに毎晩通った。
当たり前のように演奏しているストリートミュージシャンたちの
あまりのレベルの高さにも大きなショックを受けた。

次に訪れたメンフィスという街で、
赤の発色がとても素敵なギブソンの古いギターを見つける。
とても気に入ったのだが、でもせっかくなのでもう少し見て回ってからにしようと
ナッシュビルまで足を延ばす。

安モーテルに滞在しながら、
いくつもある楽器屋さんを片っ端から回って、何十本というギターを試し弾きするが
あの赤いギターの鳴りを忘れられず、メンフィスにもう一度戻ることを決めた。

長時間バスに揺られ、無事にメンフィスに到着。
初めて訪れた街の、一度しか行っていない楽器屋を無事に再発見。
生まれて初めて英語で値切った末に、思い切って購入した。
1967年製で、枯れた音の出る素晴らしいギター。
それまでの人生で一番大きな買い物だった。

そうしてやっと手に入れたギターを、次に訪れた街、セントルイスで盗まれた。

出発前から分かってたこと。
19才、一人旅、異国の地、アメリカ、トラブル。

自分なりに用心はしていたつもりだった。
それなのにまんまとやられた。
もう悔しくて悔しくてたまらない。

ちっとも本気で取り合おうとしない現地のポリスマンに日本語で食ってかかって、
危うく僕自身が投獄されそうになった。

ホテルに戻り、爆発しそうな頭を
一人必死で冷ましながら一晩考えた。

このままおめおめと日本に帰ることはできない。
負けたまま引き返すわけにはいかない。

苦労して手に入れた楽器がいま目の前にない。
その悔しさで身体が張り裂けそうになる中、
ギター代1500ドルを必ずやこの国から取り返す。そしてギターを買い戻す。
そう心に固く誓った。

次の日、予定を変更して大都会シカゴへ直行。

こんな薄汚れた放浪者でも
大きな街なら何かしらの働き口があるはずだと思ったのだ。

その読みは見事に当たる。

突撃した何軒目かの日本食レストランで事情を必死に説明していると、
黙って話を聞いていた日本人の大将が一言、

「包丁は握ったことあるか?午後から後ろのキッチンに入れ。」

ダウンタウンにあった「銀座レストラン」というお店だった。
寿司を握らせてもらえることはさすがになかったが、
裏方で魚をさばいたり、定食を作ったり、同僚のメキシカンと共に毎日必死に働いた。

普段好きで料理していたのとは量もスピードも桁違い。
毎日のように包丁で指をザクザク切っては血が吹き出し、
慣れない業務用オーブンで火傷し続けて治る暇もなかった。

住まいは、レストランの裏にあった超おんぼろホテルの一部屋を
ひと月400ドルで借りた。風呂の栓は閉まらず、
巨大なゴキブリたちが毎晩ガサゴソ這い回っていた。

朝起きてすぐにレストランでの仕事。
昼休みにコーヒーショップで英語の勉強をして夕方からまたレストラン。
深夜の仕事終わりでブルースバーに直行。

地元ブルースマンたちが聴くギターコードの指の形を目に焼き付けては、
部屋に戻って仲間から借りたギターですぐ練習。気絶するように就寝。
そうやってシカゴブルースのフレーズを一つ一つ憶えていった。

ギターを盗まれるというトラブルも、
集中して音と向き合う環境作りに、結果的に一役買うことになっていた。

使う時間もないから、金は貯まってきた。
週末にはシカゴ中の楽器屋を回って、グッとくるギターを探していたが、
これだ!という出会いがなかった。

日本では大学の後期の授業もとっくに始まってしまっていたが、
まだ帰るわけにはいかない。慣れない環境と疲労で心も折れかけていたが、
辛かったラグビー部の合宿に比べればまだいけるぞと、
なんとか自分を励まして毎日を過ごしていた。

とはいえビザの問題もあったし、
大学のテストの時期も迫ってきて、いよいよ帰国せざるをえなくなった。

悔しくてたまらないが、まぁやるだけやったよな・・・無理やり自分を納得させつつ、
帰国前日の夜もいつものようにブルースバーへ出かけた。

そこに背の高い痩せた一人の日本人の青年がいた。
いつもなら日本人には絶対に話しかけたりしないのだが、
その夜はなぜかその男が気になり、僕の方から声をかけた。

「日本人ですよね。音楽やってるんですか?」
「そうだよ。ブルーズをやりにこの街にきた。俺はギター弾きだ。」

穏やかだが太い芯を感じさせる彼の話は面白く、
ブルースについて、音楽について、そしてなぜアメリカに渡る必要があったのかなど、
閉店時間まで時間を忘れて語り合った。

帰り道に滞在先を聞くと、なんと僕と同じ、
ダウンタウンの超おんぼろホテルに彼も泊まっていたのだった。

そして帰路のタクシーの中で、彼がシカゴでギターを買ったばかりだという話を聞く。

「良かったら部屋で見せてよ」
「もちろんいいよ」

ホテルに着き、部屋のドアを開け、彼が黒いギターケースをゆっくり開くと、
目に飛び込んできたのはなんと・・・。

僕が盗まれたギターそのものという訳ではないが、
同じギブソンというメーカーで色もまったく同じ美しい赤、型番も同じ、
さらには製作年まで一緒のギターだったのだ。

思わず息が詰まった。
震える声で事情を説明した。

「ここに僕がこの国から取り返した2000ドルがある。
君にとってギターは商売道具だというのもよく分かる。
だけどもしできたら、このギターを譲ってもらえないだろうか。」

彼はしばらく考え込んでいたが、
これからの自分の勝負を左右する大切な道具だということで断られてしまった。

あぁでもやるだけやった、最後に夢を見ることができた・・・すこし救われたような気持ちで眠りについた。

いよいよアメリカを発つという次の朝早く、
僕の部屋を訪れた彼の手には、そのギターが握られていた。

「あれからずっと考えたんだが、このギター、やはり君が持っていた方が良い。
どうか大切にしてやってくれ。」

あまりの展開に、言葉の意味がしばらく分からなかった。
ただただ彼の手を強く握っていた。

こうして僕は、盗まれたギターとほとんど同じ、
1967年製の赤いギブソンES330という名器を、
再び手にして日本に戻ることができたのだ。

嘘みたいな本当の話。

(ちなみにギターを譲ってくれたのはタカ・サイトウというギタリスト。後にマジック・スリムという世界的に有名なブルースマンと共に全米ツアーに出ることになる。)

アメリカでの生活

大学卒業後も2年間ほどシカゴに移住。

シカゴにはブルースバーが本当にたくさんあって、
ダウンタウンでは観光客向けのブルースが、ディープサウスと呼ばれる黒人街では
彼ら自身が楽しむためのブルースが毎晩演奏されていた。

僕が一番お世話になったお店が、
「Lee’s unleaded blues」という黒人街ど真ん中にあるブルースバー。
ダウンタウンからタクシーを拾っても、
黒人のドライバー以外からは

「俺はあんな場所へは行けない。他をあたってくれ。」

と言われて降ろされてしまうような、まぁ簡単に言えば非常に危険な地域。

車で行くときには窓ガラスを割られなくても済むように
車の中を空っぽにして、わざと窓ガラスを開けっ放しにしてから店に入った。

ギターはゴミに見せかけてゴミ袋に入れて担いで歩き、
今思えばあほらしいのだが少しでもいかつい男に見せようと、
マジックで顔中にヒゲを書いてからお店に向かったりもした。

うまくお化粧できていると自分では思っていたのに、
お店に着いたらウェイトレスの女性から、顔を拭けというジェスチャーと共に
無言で濡れたタオルを渡された時の恥ずかしさは今も忘れられない。

店までの道中、そこまで危ない目に遭わずに済んだのは、
ヒゲによっていかつい男に見えたからではなく、
でかいゴミ袋をかついで顔の半分を黒く塗りたくった、
アジア人の相当やばい奴だと思われていたからなのかも知れない。

ブルースバーでは何曜日に誰が出演する、というスケジュールが決まっていて、
お客さんはお目当てのブルースマンが出演する日を狙ってお店にやってくる。

だいたい一晩3ステージあって、ファーストステージは20時頃からはじまり、
休憩を挟みつつ、ラストステージは一般客がほとんど帰った後、
日をまたいで1〜2時ごろまで演奏される。

僕も毎週のように好きなブルースマンが出演するお店を狙って、
ギターを持って出かけていった。

何週目かにバンドのボスが、女にもてたか何かで機嫌が良かったのか、

「よう、お前は毎週来ているな。ギターを弾くのか。」と声をかけてくれた。
「よし、3ステージ目でステージに上がれ。」

その夜のことは一生忘れることはないだろう。

客はほとんどいないというのに、ステージに上った瞬間から頭まっしろ。ひざがくがく。
普段じゃ考えられないようなトンチンカンな音が、アンプから大音量でお店に響き渡った。

部屋に帰ってからも、疲れきっているのに朝までまったく眠れなかったことを、
つい最近の事のように今でもよく憶えている。

一度、ミュージシャンたちの車が壊されて
彼らの楽器が盗まれてしまったことがあった。

怒る奴、落ち込む奴、お店の雰囲気は最悪に。

僕はいつもの3ステージ目、真夜中過ぎの出番がくると、
気づいたらマイクを持ってつたない英語で叫んでいた。

「今夜、すごく悲しいことが起きた。
悲しいことが起きれば、気分も最悪だ。
だけど俺たちはここに楽しむために集まったはずだろう。
すばらしい音楽と歌声、そしてその音楽を楽しむ気持ちで
まずはこのお店をいっぱいにしていこう。
そしてその波動を少しでもお店の外にもふくらませていって、
街にあるネガティブな想いを気持ちの良いものに変えていこうよ!
みんな声を出して一緒に歌ってほしい、スタンド・バイ・ミー!!」

お店が揺れるほどの大合唱になった。
僕もあらん限りの声で歌った。

言葉がうまくないとかそんなの関係ない、ハートは通じるんだ。
そんなことを確信した夜になった。

その様子をテープレコーダーで録ってくれてた人がいて
録音状況は最悪だけれども、今でも僕の宝物の音源だ。

日比康造の音楽を作りたい

シカゴでの生活が続くにつれ、
暮らしは徐々に安定してくるのだが、どうにも拭い去れない想いがふくれ上がってきた。

それは、
ブルース音楽はどこまでいっても自分自身の音楽ではないということ。

自分で作った曲を、自分の言葉で歌いたい。

その気持ちをはっきりと確認すると、
シカゴを離れ、アラスカで狩りをするなど各地を転々と放浪した後に
母国日本に戻った。

ところがオリジナル曲の制作というのは当時の僕にとって本当に難しい作業だった。
理想ばかりが膨れ上がって、まったく形になっていかない。

最初から名曲を書かなければという気負いや格好つけが邪魔をして
素直な言葉やメロディが浮かんでこないのだ。

少しメロディを思いついても、あー違う。
少し言葉をつづっても、あー嘘だ。

小学生の書くラブレターがへんてこに大人びてたりして、
後で読み返すと失笑してしまう、あのむず痒い背伸びの精神構造と一緒。
つまりは自分のことしか考えていなかった訳だ。

今となれば分かることも、
当時は自分の中で何が起きているのか全く把握出来ず、
ただひたすらに心をこわばらせていた。

虚勢を張って毎日を過ごす僕の性根を変えたのが
友人から届いた一通の年賀状。

「今年はそろそろやらないと。考えると未だ何もできてない。
今年は本気で頑張って少し形を残そう」

そう書かれていた。

友人にまでそう言わせてしまった。
もう格好つけているのも限界だ。
何かが弾けた。

変でもイイ、しょうもない曲だって言われても構わない、
とにかく一度形にしようと腹を決め、

一ヵ月後に4曲入りのデモテープを作った。

20代半ばを過ぎていた。
それが「日比康造の音楽」の本当のスタートでした。

プロの音楽家への道

ミュージシャンとしてどうにか前に進みたいともがいていたある夜、
そんな僕の状況を知っていた遊び仲間からの電話が鳴った。

「今、遊びに来ているクラブに音楽関係者が結構沢山来てるみたいだから
コーゾーもちょっと来てみたら?」
「おっけーすぐ行く。場所は?」「恵比寿のミルク。」

作ったばかりの4曲入りのデモテープをウォークマンに突っ込んで、
すぐに家を出た。

クラブ「ミルク」に入ってすぐにその友人が、
でっかいサングラスをかけた人を指して言う。
「あの人は有名なギターリストらしいよ。」

当時、僕はその人を知らなかったのだけれど、
知らなかったからこそ気軽に

「音楽やっている方ですよね?ちょっと僕の歌を聴いてもらえませんか?」
と声をかけた。

その人はすぐにでっかいサングラスを外して
「もちろんですよ。」と言って4曲ともじっくりと聴いてくれた。

そして
久し振りにデモテープでこれだけの質のものを聴いた。
僕は君をどうこう出来る立場に無い、だけどぜったいに頑張って世に出て欲しい

というような言葉をかけてくれたのです。

後で知ったがその人は
元ジュディー&マリーのギタリスト、TAKUYAさんだった。

お世辞かもしれないその言葉を真に受け、少し自信をつけた僕は
次に教えられた音楽関係者だという
なにやらイカツそうな人にもウォークマンを押しつけて

「ぜひとも聴いてみてください!」と迫った。

そうしたらその方もじっくり聴いてくれた上に、

「はっきり言ってとても良い。
君に紹介したい人がいるから連絡先を教えてくれないか?」

そう言って、音楽事務所の方々とつなげてくれたのです。

(ちなみにそのイカツイ人は音楽関係者ではなく、カメラマンの鷲尾和彦さん。
鷲尾さんには僕のファーストシングルの写真を撮っていただきました。
今でも腹からの付き合いをさせていただいています。)

そこから無事に契約に至り、
音楽でお金を頂くという経験を初めて体験させてもらった。
それが有難いことに2年ほど続いた。

ところが活動は尻すぼみ。

自分に自信がないときに限って身体中に余計な力が入るもので
人を信じる、人にお任せする、人と一緒に仕事をする、ということが
当時の僕にはまったくできなかった。

無知な頑なさが、救いようのない大きなブレーキになっていた。

事務所との契約が終わり、フリーになってからは
どんな小さな所でも、とにかく声をかけて頂けたところでライブ、ライブを続けた。

一人になってみて、気づいたことがたくさんある。

一人でできることなんて、本当に小さいものだということ。
聴いてくれる人がいるからこそ、歌うことが出来るのだということ。
歌いたいならそこで一人で歌っていればいい。
だけどその歌を広げようと思った瞬間に、必ず誰かのお世話になるのだということ。
そこに感謝と尊敬が生まれるということ。

痛い思い、恥ずかしい体験を重ねながらも少しずつ、
人と一緒に仕事をするという事を身体で覚えてきたように思う。

自分に悪い意味で執着せず、頑なにならず、
その上で信頼している人たちと力を合わせて、
自分たちが最高だと思える作品を、これからも創り続けていきます。

またステージでお会いしましょう!